昭和41年12月03日 朝の御理解
商売をするなら元を仕込む所と、いわゆる仕入れる所と売る所、買い場売り場を大事にせよと、教祖の神様は仰ってられますですね。所がお客さんは大事にしても、仕入れ元の方は大事にしないというのがありますね。特にこの久留米商人は昔から言われております。もう日本中で久留米商人位えげつない商売をするもんなおらん。大阪辺り大阪の商人でも、もうとにかく九州にやって来たらもう九州中回って一番売れない物を持って来る。
その代わりもう叩かれるしこ叩かれる。
とまあ久留米商人の事は、まあ商売人という立場から言やあ立派、素晴らしい所があるでしょうけれども、そういうその所謂その、売り場は大事にしても買場は大事にしないと仰いますね。まっそんな風に言われとります。これはあの商売人に対してだけじゃないと思うですね。売り場を大事にし買い場を大事にしなければならんと。確かにそうだと思うですね。売り場買い場を大切にせねばならん。
私が頂いて居る御教えの中に品物を売る時には、自分の娘を嫁にやる時の様な気持ちと仰る。何か傷もんでもつかませると、よかったと言った様なものではなくて、まあ売れて良かったと言う様なものじゃなくて、本当にどうぞふつつかな娘でございますけれども、どうぞよろしゅうお願いしますよと言うて、その親がそういう思いを込めて、その先方に頼むように娘を貰うて貰ってと言う様にね。不束な何もお躾も出けておりませんけども、どうぞよろしゅうお願いしますと言う様な心持で商品を売れと仰る。
どうぞそして向こうでその、本当に商品なら商品価値が発揮出来る。どうぞそちらで喜んで貰えれる様なおかげを頂きたいと言う様に、商品でもそうだ。ほんとに向こうに行ってから、こげな品物は悪かったと言われるよか、今年の物は良かったと、安くて良かったと、いわば言われるように、その喜んで貰えるようにという、その娘でもやるような気持ちでとこう仰いますね。仕入れる所はですね、この養子でも貰うような心持と仰っとる。例えばどんなに店が繁盛しておっても。
養子の来よう一つでは養子がその店を潰して仕舞うと言う様な例もある。ですからその養子をほんとに大事にする。そのいわゆる買い場というものを大事にする。勿論その商品も大事にする。それから丁度養子でも貰う様な気持ち。商品が養子なら、なら向こうから仕入れてこちらから売って貰った、仕入れ先の方はその養子を貰った養子の里のようなもの。その位な気持ちでおかげ頂いたらいいですね。
所がそこ辺がですね、その商品はじゃない、そのお客さんは大事にしても、いわゆる御元の方は叩いて叩いてそのと言った様な事ではです。如何にも叩けばですね、いかにも、そのそれだけ余分に値切るものですから、儲るようですけれども、そうじゃないですねえ。それはもう成程、五と五を足せば十になると。けれども五と五を足してですね、もうそれこそいうなら、五、五、二十五と言った様なおかげになるです。それは何故かというと神様の気感に叶うからですよね。
今日愈々善導寺の六十年の記念祭が、それこそ私昨夜前夜祭風邪の具合いが悪うございますから、もうちょっと神饌お供えですね、の方だけ私が受け持っておりましたですから。神饌がお供え付けが出けておるその様子を見て、又足りないものがあるなら又買わんならんと思うて昨日、前夜祭前にちょっと覗かせて頂きました。そりゃもうほんとに、もうそれこそ潤満たるそのお祭り風景でございますですねえ。もうそのお祭りなんかお供えなんか盛りつけがねえ、先生方ばっかりでなさっておられますから。
もうそれこそ潤満たるもんですねえ。まっそれで準備をまあ万事整えておられましたですが、私夕べ若先生が帰ってから話しておりましたが、その霊神様に親先生が、そのお礼を申しておられる中に、兄弟三人が鹿児島とそれから北野と親先生、兄弟三人が、その六十年の記念のお祭りを奉仕させて頂く、と言う事はほんとに有り難い事だと。こんなに準備も出けてと言う様な報告のそのお祝詞があっておったのを聞いて非常に感激したと言うておりましたが。
私思うんですけれどもけれども、どんなに素晴らしい手を、ならお供えつけの上手な先生方が居られてもですね、お供え物がなかったらですね、それこそ又その誤魔化されませんもんね。ですからそんなこと私考えさせて頂いておりましたら、帰ってから話聞きよりましたらまあ平たい言葉で言うならですたいね。ああいう例えばあの事が出来るようになったことは、ほんとに有難い事だけども、六十年後の今日例えていうならば丁度この記念祭を境にです、椛目なら椛目が教会設立のお許しを頂いて。
それで合楽の方に御造営も出けて、おかげを頂いたと言う様な事もね、あの奏上すべきだという意味の事を頂くんですね。私はそのお祭りが立派に兄弟三人で揃うて出来ると言う事も、それは肉親的な親から言えばですね。喜びに違いないですよね。けどももう信心の立場だったら、子供であろうがそれは信者であろうが、初代の親先生にとっては、ほんなら、私であろうが親先生であろうが理屈はおんなじ事なんですね。
只新たな信心を頂いた、椛目がこういう風におかげ頂いとりますと、私はそう言う様な事を思わして頂いたら、今皆さんにお話しましたね、売り場買い場を大事にせよと言う事の意味の事を頂くんですよ。成程私はその中からです、売り場買い場を大事にせなければいけないなと。昨日長女がもう御用、帰って遅うございましたが、休むときはもう一時二時だったでしょうね。あの人が休む時は。
私丁度来ながら何かの事ちょっと言ってるんです。事の御信者さんの事で、あの何かえらいえげつない事をそのされたり、言われたりしたらしいんですね。ですからもう今度はもうギャフンと言わせなならんと言う様な事を、その豊美が言よりますもん。それから豊美さん豊美さんち私が。例えて言うならね、例えてほんならここに教会が始まった。先生が例えばお父さんが、ほんならまあ布教に出て、誰もお参りがないとするばいて私が。それこそ、子供が参ってきたっちゃ嬉しゅうして応えん。
今福岡の西新に国武という先生がおられますが、その方非常にあのまあ霊徳の優れた先生です。満州のりょうようちいう田舎にですね布教に出られたんです。もうそれこそ教会は作られた布教所は作られたんですけども、来る日も来る日もだあれも参っちゃ来ん。それでもやっぱ御結界でああして奉仕しとられたもんだから、ある日その支那人が野菜屋がですね表の金光教というのが、支那語ではチンゴンチョウという訳なんですねえ。その庭でチンゴンチョウチンゴンチョウとおらんで庭に入って来たちゅう訳ですね。
お野菜は要らないかと言う訳なんです。もうその時にですね神様に泣いて御礼申し上げたと、だぁれもそれこそ庭先までも入って来る者は御座いませんけども。只今初めて支那人の野菜売りが庭に入って来たというだけでも、その泣いて神様に御礼を申し上げたと言う様な事を言うておられた事が御座いましたがね。ほんとにその荒れ地の中に布教にでも出たらそう言う様な思い。もうどんなに根性の悪い人であろうが。
どんなにえげつない人であろうが、例えていうならばそういう大事な、いうなら御信者さんぞと私が申しました。もうギャフンと言わせなて、お前なんちゅう言い方するかて、ま夕べ寝がけに説教した事で御座いますけれどもね。私共はそう言う事は全然知らんのですよ。大体教会持とうなんて思ってないし、まあ私がここに来た時には、もうそれこそ門前市を為す様に人が集まって参りましたからね。一年後にはもう、二回に御大祭仕えなければならんと言う様な状態でしたから。
子供達はだからそういうこた全然知らん。私共の修行中の時分は知っとってもです。例えばここ初めから教会しようというて教会したのじゃないですから。そういう意味合でそれこそ支那人の野菜屋がです。庭に入って来たっちゃそれを神様に御礼を申し上げると言った様な心がです。私は買い場を売り場を大事にすると、言った様な事じゃなかろうかとこう思うんです。神様を大事にしなければならん。内々も大事にしなければならない。さあ例えばここに参って来た信者さんにです。
えらいこのサービス精神を旺盛にしてから。はあお寒う御座いました、暑う御座いましたろうと言うてですね、そういうこっちゃないて。問題はここにほんとに根性が悪けりゃ悪い程、やっぱり御神縁を頂いてからお広前に神様がお引き寄せを下さるのであるから。本当に神様、椛目にご縁頂いておって、ああ言う様な心がけでは、あの人が助かりません。どうぞ助けて下さいと言う様な願いを持つと同時にです。
そういう根性の悪い人でも、ここへ来て貰うと言う事が有難いと言う様なです、気持ちになる、ならにゃいけんよと言った様な事を話したんですけどもね。まああれこれそのまあお話をしました事の中に、私はこの商売をするなら売り場買い場をとこう仰るが、信心をさせて頂くなら、やっぱりそこん所の売り場買い場を大事にさせて貰う。そういう私はおかげを頂かなければならんと思うのですね。
どうぞ。